ワイルドチャイルド
あれはアウルとの契約から2005年目のこと。始まりは第十六世界・ヴィックスベルという郊外の町からだった。
「こらっ、濡れねずみちゃん、パンツをおはき! そりゃあ僕だってこんなものは窮屈でいらないと思っているさ? でも、ウィズが怒るからね!」
今日もティルダは、きゃあきゃあと笑い声をあげながらアウルから逃げ回っている。濡れた赤毛がこんがらがって、小さなスモークツリーが走り回っているようだ。そんな二人の追いかけっこを、ベイクドモケモケとワタボコリはそれぞれ鬱陶しそうにしながら再び寝入っている。
ティルダレッテを赤ん坊の時に引き取ってから、五年が経った。
ウィストールたちはもともとパルヴァヴィーラという世界に住んでいたのだが、ティルダのことをかんがみて居を移しすことにしたのだ。パルヴァヴィーラはミラが創った領域世界であり、現在はアウルが管理していた『永遠の国』である。世界の特性上、歳を取らなくなるのだ。そこにいては、ティルダはいつまでたっても赤ちゃんのままとなる。それはあんまりだからだ。
そこで二人と小さな赤ちゃん、そして二匹の飼い猫は、ここ――ヴィックスベルの小ぢんまりとした家に移り住んだ。アウルがのびのびと暮らせるように、彼が人間でないと知られても問題のない、魔術や魔物が認知されている国を選んだ。魔術があるぶん、機械文明はあまり発達していないのどかな町だが、そこも気に入っている。
そしてウィストールは、この町で魔術師として生計をたてていた。家に併設している『ウィズとアウルのなんでも魔術店』では、まじないの符や魔術用具を売ったり、人や物に魔術を施す。
初めの頃は、生花をずっと枯れないままでいさせるプロテクトがかなり好評だったのだが、地元の花屋に怒られてやめた。現在よく持ち込まれる依頼では、失せ物探しや、鍋の焦げ付きをとること、お風呂にカビが生えなくなる魔術、ストッキングが破れにくくする魔術なんかがある。そして忘れてはいけない、アウルの発案により生み出された、お茶が永久にアツアツのまま保温できるポットも人気商品だ。
幸い若いお客さんたちもよく訪れる店になった。特に女の子たちには、一日だけ瞳をきらきら輝かせる魔術がデートの日に人気だ。そしてアウルがミラの姿でそばに控えている時なんかは、顔が良いためきゃあきゃあ言われている。しかしなぜか、アリソンの姿でいる時の方が話しかけやすいようで、アウルはよく町の女の子たちとアリソンの姿でお茶会をしていた。「コイバナって楽しいんだよ!」とかなんとか。どんなことを話しているのかは知らないが、なぜかアウルはやたらと僕の手を握ってハンドクリームを塗りたがるようになってしまった。
アウルが魔物であることは、移り住んで即町中にバレていた。しかし幸いなことに、いつもご機嫌でいるおかげか親しまれているようだ。
見た目は若い青年であるウィストールと、魔物であるアウルが小さな人間の赤ちゃんを育てていることもすぐに知れ渡り、町の奥様方はとても気にかけてくれたものだ。育児について何度叱ってもらったかわからない。おかげでこうして五年が経った今、ティルダは元気いっぱいの女の子に成長していた。
「観念しろ、今日こそはパンツと毛糸のパンツを二重ではかせてやるぞ!」
アウルに捕まったティルダは、しばらくくすぐられてジタバタしていたが、ミラの姿をとっている今のアウルの体格からは逃れられず、ついに笑いながら二枚のパンツをはいた。ティルダは毎晩、お風呂上がりのこの追いかけっこが楽しくて仕方がないようだった。
ティルダは育ての親のひとりがアウルということもあり、今ではすっかりやんちゃとおしゃべりの盛んなプリンセスだ。ぐりぐりに渦巻いた赤い髪と、薄緑の目がぱっちりして可愛らしい。ウィストールとともにピアノを弾くことと、アウルと追いかけっこや日向ぼっこをすることと、ベイクドモケモケとワタボコリを撫でることが何より好きらしい。
そしてウィストールも、ティルダとアウルがこうして笑いながら転げ回っているのを見るのが好きだった。
今日も、「やれやれ」と息を吐きながら日課をこなした二人に声をかける。
「二人とも、夕食ができたよ。髪を拭いたらおいで」
三人で窓際のテーブルを囲み、夕食をとる。今日は定番メニューの、地元の魚のクリームシチューと、ご近所さんにお裾分けしてもらった夏野菜のサラダ、ふかふかのパンだ。食事の間中、いつもはおしゃべりなティルダはずっとそわそわしているようだった。そして、うるさいほどのおしゃべりなアウルも、そんなティルダを気遣うようにちらちら目をやっているのに気がついていた。
食後になって、二人はやっとその態度の答え合わせをしてくる。
「あ、あのね、パパ」
片付けをしている時に話しかけられたので、屈んでティルダに目線を合わせた。
「どうしたの?」
ティルダは体の後ろに手をやり、もじもじしながら言った。
「今日は、パパのお誕生日でしょ。だからね、プレゼントを用意したの……」
「本当に!? 嬉しいなあ!」
二人の態度から察していたとはいえ、やはり格別心が踊るものだ。
しかし、ティルダはもじもじしたまま、なかなか手渡してくれない。そして、後ろで見守るように立っていたアウルと秘密の会話をし始めた。
「ウィズが待っているよ、渡さないのかい?」
「でも、やっぱり、あんまり上手じゃないし……」
「大丈夫さ、素敵に描けたじゃないか! ほら」
アウルに促され、ティルダは筒状に丸められた紙を渡してくれた。青いリボンで結ばれている。
「ありがとう、中を見ても?」
ティルダが頷いたので、どきどきしながらリボンを解いた。
画用紙にクレヨンで、家族の似顔絵が描かれていた。筆致は年相応のものながら、色をふんだんに使い、丁寧に時間をかけて描き込まれているのがよくわかる。嬉しさのあまり涙が滲んできた。
「うわあ、嬉しいよ、こんなに……」
ところが、紙を最後まで広げたとき思わず「ウォッ……!?」と奇声をあげた。
紙の上に描かれ、名前を書かれている人物は左から順に、
パパ わたし アウルくん しぇりんぐ
――四人いる。明らかに一人多い。アウルの絵の隣に、なんか知らんやつがいる。
「……、待って?」
ウィストールはつい思考停止し、絵を見つめながら頭を抱えた。しかし、ティルダが自分の反応をうかがっていることに気づき、すぐに彼女を抱き上げて喜んだ。
「……とっても素敵な絵だ! 良く描けているね、僕なんてすっごくイケメンじゃないか! 素晴らしいプレゼントをありがとう、ティルダ! ……ところで、これは誰かな」
ティルダは抱き上げられて嬉しそうに笑いながら、なんでもないように言う。
「シェリングお兄ちゃんだよ。いつも鏡の中にいるでしょ」
「えっなにそれ怖い……」
よくあるホラー映画のような展開が、まさか自分の身に起きるとは。子どものティルダにだけ見えている存在ということだろうか?
乙女のように震えてしまうウィストールだったが、こういうときでもアウルだけはいつもの調子を崩さない。
「そのお兄ちゃんはティルダのお友だちなのかい?」
「うん」
「僕も会いたいなあ! ご挨拶してもいいかな?」
「いいんじゃない。居間の鏡によくいるよ」
アウルはそれを聞くと、「じゃあ、ご挨拶に行こう!」と笑顔で言う。アウルの場合、この言葉に「不審者なのかイマジナリーフレンドか見極めよう」なんて意図はない。本気で、ただ挨拶をしたいと思っているだけだ。
アウルに袖をひかれ、半ば強引に居間の鏡の前へ連れられた。もともとこの家を買い取った時から備え付けられていた、暖炉の上の四角い巨大な鏡だ。金属の重厚な枠に縁取られ、歪みひとつなく光る銀面は美術品のように美しい。出かける前の身支度なんかに重宝していた。
鏡には今、ティルダを抱いて怯えているウィストールと、興味津々のアウルが映っていた。他におかしいところは特に見当たらず、なんの変哲もない鏡に見える。
「な、なあんだ。普通の鏡じゃないか」
鏡を見つめながら、へへへ…と情けなく笑う。
しかし、一瞬遅れて気がついてしまった。
鏡の中に映っていた自分の虚像は、真顔のままこちらを見続けていたことに。
「――っきゃああああああああ!!」
女の子のように甲高く叫び、その場で腰を抜かしてしまった。直前でアウルがティルダだけはひょいと取り上げたので、ティルダをぶつけてしまうことはなかったが、ウィストールは思い切り腰を打ち付けてしばらく動けなかった。
しかし相変わらず鏡の中のウィストールの虚像は、床に転げたウィストールを真顔で見下ろしている。アウルはウィストールを片手で助け起こすと、鏡の方を不思議そうに見つめた。
「君は誰? 鏡の中にいるの?」
アウルが問うと、虚像のウィストールはその口角を上げた。
銀面の鏡が小石を投げこんだ泉のように波打つ。一瞬だけキィンと耳鳴りがして、思わず顔をしかめる。
固唾を飲んで見守る中で、波打った虚像は崩れて別の人物の姿を描き出す――そこには作られたかのように淡麗な容姿の人物がいた。細身で色白な姿は中性的だが、青年と呼ぶべきだろう。真っ直ぐな直線を描いて切りそろえられた髪は、初め金に見えたが、彼がわずかに首を傾ぐと銀にも青白くも緋色すらも混じって見えた。ガラス玉のような瞳も、様々な色が混じり合って『何色』とは呼称できない。彼は白銀と赤の仕立ての良い衣装を纏っており、まるでどこかの王族のような出で立ちだ。
彼を見た途端、この世のものではないとすぐにわかる。それは鏡の中にいるからではない。測ったように完璧な均整をとった造形も、血の通った柔らかさや温度感のない肌も、あらゆる光を反射する髪も、ぞっとするほど美しく人間ではありえない存在であると雄弁に語っている。
そしてなぜか、魂やあるいや意思のようなものを感じられない。喪服の少年にすらわずかに感じたはずのものを。まるで幼い頃に見た人形劇のような――人目を惹く疑似餌のような――。
ウィストールの一瞬の思考は、ティルダの声によって遮られた。
「しぇりんぐ!」
ティルダが元気いっぱいに呼ぶと、彼は裂れの長い目元を美しく細めた。
「こんばんは、ティルダ。――そして、2番のウィストール、7番の黄金の昼下がり」
こちらの名前を呼んだことに言葉を失っていると、彼は優雅に一礼をし、その理由を述べた。
「私はあなた方をよく知っています。こちら側から見ていましたから」
「か、鏡の中から? うちの鏡にいたの?」
震えながら問うと、彼は首を横に振った。
「いいえ、私は全ての反射物の中にいます。こちらの鏡もそのひとつということです」
アウルが「あっ」と声を上げた。
「もしかして、君は『鏡の中の王子』じゃないかい? 1番から昔、聞いたことがあるよ!」
「ええ、私をそう呼ぶ方々もいますね。つまりは、私は4番。そしてシェリングという名前でもある。あなた方のお仲間というやつですよ」
彼はそう言って、茶目っ気を含んでにこりと笑った。
――4番。彼はそう言った。つまり彼も、世界を破壊可能な力を持つ存在のうちの一人ということになる。
ウィストールは慌てて挨拶をした。
「あ、ええと、こんばんは!」
「はい、こんばんはウィストール」
「うん、ええと……こんばんは!」
「はいこんばんは」
動転のあまり通常なら第一印象最悪の挨拶をしてしまったが、鏡の中の王子はもともとこちらのことを見知っていたというし、緊張しやすいたちなのも当然知っていただろう。
逆に、こちらは彼についてまだほとんど知らない。
しばらくの間、ウィストールとアウルからの疑問の嵐に彼は律儀に答えてくれた。
曰く、彼はあらゆる世界のあらゆる反射物から覗く存在であり、それ故にすべてを見ており、すべてを知るものであるという。
通常は彼の姿を捉えることはできないが、稀にティルダのように彼を見る存在に出会うと、問いかけに答えてくれるのだという。
「どんな問いかけにも答えます。あらゆる世界の事柄を見知っていますから、どんなことでも答えましょう。ただし、相応の対価を要求しますが」
すべてを知り、対価があれば問いに答えるもの――それが鏡の中の王子という存在なのだ。
番号を関するものたちは、みな何かしらの概念を司っている。例えば喪服の少年は『死』、ウィストールは『記録』、アウルは『永遠』であるように。しかし、鏡の中の王子は自らの司る概念は教えてくれなかった。
「最低限の自己紹介は対価なしのサービスにしますが、それにはお答えできません」
「知りたければ、対価が必要だということ?」
「はい。ただし、こちらの情報への対価はあなた方の支払い能力を超えますので、私の口からお教えすることはこの先ないでしょう」
……だそうだ。
そして彼は、こうも言った。
「これからも、どうぞよろしくお願いいたします。何か困ったことがあれば、鏡を前に『鏡よ鏡』とお呼び付けください。いつでも、どんな問いにもお答えしましょう」
話しているうちに、初めに感じた恐怖は気のせいだったのかもしれないと思えてきた。彼は案外、話しやすい方だ。
「わかったよ、ありがとう。……ところで、なぜよくティルダと話してくれていたの?」
彼は口元だけを薄く笑ませた。
「私たちのような人ならざるものたちが、どんな子育てをしたものか興味があったのですよ」
その言い方には皮肉な含みを感じはしたが、あえて突っかかりはしなかった。
その日は、最終的に和やかに自己紹介をし合って初対面の挨拶を終えた。
まさか数日後、鏡の中の王子との間にとんでもないことが起こるとは、その時のウィストールは想像すらできていなかった。