とある船員、かく語りき
そういや「奴」、今頃どうしているか。
始まりは至極単純、ただ少しばかり気になっただけだ。そして何となしに手を突っ込んだコートのポケットに、入れっぱなしにしていた奴の名刺があった。ヘタクソなアルファベットの羅列が、奴の名前を表している。
Ryunosuke Arata
アメリカ人の俺には慣れない日本人名の隣に「May be Newyork」――「おそらくニューヨーク」なんて適当にも程がある住所が書いてある。そう、あの時のあいつはまだ住所も決まっていなかった。何せ俺たちが出会ったのは、アメリカに向かって航行中の船上だったから。
奴はアメリカに渡って貿易をするんだと言う風変わりな日本人で、船員の俺がちょっとばかし――いや、日本人なんてサルが洋服着ているようなもんだと思ってたしちょっとじゃなかったかも――からかってみたら「殺すぞ」とひとこと英語で告げて足払いしてきやがった。あまり言いたくはないが、俺は派手にすっ転んで……そこから大喧嘩に発展はしたものの、お互いキッパリした性格が気に入っていつの間にか打ち解けていた。俺が敢えてそうしようとしたのもあるが。
ヨーク港に着いて別れた時点では、住所は未定だったから名刺にこう書いてあるが、俺がニューヨークの良い不動産屋を紹介してやったから、そこへ行ったかもしれない。
しばらくたったある日、仕事でニューヨークへ行く用事ができた。そろそろ暖かくなる、五月中旬のことだ。
それで俺は、仕事の合間に例の不動産屋に立ち寄って聞いてみたんだ。あいつはここに来たか? いい家見つけたか? って。
「ああ、あのおっかねぇジャパニーズか。半年も前のことだが、印象的だったんで覚えてるよ」
不動産屋の親父は禿げた頭を撫でつけながら渋い顔をする。
「東洋人は何もわかんねぇと思って高めに値をふっかけてたらな、こう、おっかねぇ目で『殺すぞ』って言うんだ。ありゃ本気の目だな」
……あいつらしいぜ。
「……あのジャパニーズ、よりにもよって例の屋敷が気に入ったらしくてな。今じゃそこに落ち着いてるよ」
「例のって…どこだよ」
「あの…エドワード・ハインツの屋敷だよ。変な噂ばかりたって、なかなか買い手がなかったんだ。安値で売りだしていたがな」
「あの屋敷を奴が?」
俺の職業柄、何度も耳にした屋敷だ。例の噂を知ってのことだろうか。…いや噂を知っていたところで、奴は「望むところじゃねーか」と黒い笑みを浮かべそうだが。
ますます奴の現在の暮らしぶりが気になって、俺は数日後、連絡もなしにその屋敷を訪れた。
港からウォール街を少し北へ抜けた住宅街。それぞれの家や店がこまごまと主張している。
そんな中、周囲の家々から一線を画した場所にその屋敷はあった。黒い柵が高く囲み、広い庭の奥にそびえる洋館。夕日をバックにしたその外観は黒く影になって見え、不吉なものを連想させる。だが古ぼけていながらも手入れはゆき届いている。使用人を雇ってあるのかもしれない。玄関に辿り着くまで歩いた庭には、奴にはまるで似合わないバラの木なんぞが植わっていた。
「……ふん」
軽く息をついてブザーを押した。ビィィと寂れた音が響く。
数十秒後、かたり、と扉の向こうで物音がする。人が出てくるものと思い身を正したが、それきり反応がない。
――留守か?
そう疑い始めた頃、重たそうな扉が大きく軋んで開いた。
「――よお。アンディ」
気だるげな声が俺を迎える。
「ケビンだ」
「冗談だよケビン。久しぶりだな」
扉に体重を載せたまま失礼にも程があることを言う、この若い男が「龍之介」だ。紳士とはほど遠い、浅黒い肌に少し伸び気味の髪。背はそんなに高くないが、引き締まった体を上質そうな和服に包み、丸眼鏡をかけている。顎は細いが、目つきはマフィアのように鋭く光り、歪めた口端には紙煙草。ハッキリ言って悪人面だ。
龍之介は目元を細め、俺を観察するように見た。
「ケビンよぉ、仕事で伊太利に行くって言ってなかったっけか」
「その仕事がトラブルで潰れて早く終わってな。この前こっちに帰ってきたばかりさ。お前がどうしてるか気になって様子を見に来たんだよ」
「ふぅん…」
龍之介はさして興味なさげに紙煙草の煙を吐き出す。別にこういう態度は気に触らない。こういう奴だと割り切らないと、龍之介とは付き合いきれないからだ。
「ま、入れよ。積もる話もあるだろうしよ」
尊大な態度で屋敷に招き入れた龍之介は、応接間ではなく仕事部屋と思われる場所に通した。
どうやら本当に貿易に手をつけているらしく、部屋のあちこちに地図やら見慣れない異国の品物やらが散らばっている。
「気のきいたことが出来なくてすまねえな。使いっぱしりのガキも今は出てる」
そう言いながら龍之介は大きなデスクに向かって座り、俺は勝手に正面に掛けた。
俺はしばらく一方的に語った。内容は紆余曲折したがまとめると、別れてこのかたトラブル続きで、この世の中生き辛いよ、ということだ。
龍之介は俺の話の間、聞いているのか聞いてないのか、頬づえをついてじっと宙を見つめていた。たまに見当違いな方向に目を泳がせては、ふぅと息をついている。最初のうちはその奇妙な目線と――時折どこかからか聞こえてくる物音が気になったが、話し込むうちに忘れてしまった。
話し終えると、奴は同情するでもなく労うでもなく、ニヤリと笑って見せた。
「お前がこの半年で歩いた道筋は困難の連続だったようだが……おれの仕事は順風満帆、軌道に乗ったぜ。ここ半年の間に会社を立ち上げ、すでに二つの取引を成功させた。しかも、どちらも大きな」
「……立ち上げたばっかりでか?」
「おれには先見の明がある」
皮張りの椅子にそっくりかえって、デカい口ばかり叩く。
何か言い返してやろうとした時、龍之介は「…と言いたいところだが」と続けた。
「おれにも積もる話はあってな。話そうと思えばだが」
「聞かせてくれよ」
「…どうしたもんか」
意地悪ではなく、珍しく本気で迷っているように口をつぐんでいる。そして紅茶を一口含んだ。
「――あれ、いつの間に紅茶なんて用意したんだ?」
さっきまでは置いてなかったはずだ。それに、俺が話していた間、龍之介は一度も席を立っていなかった。
「お前の分もあるぞ」
龍之介の目線を辿れば、確かに傍の小さなテーブルに湯気のたつカップが置いてある。
俺の疑問を見透かしたように、龍之介は語る。
「――影の薄い使用人の女をひとり、雇ってな。そいつがさっき置いて行ったよ。お前には見えなかったのか」
そう語る龍之介は、実に奇妙な表情だった……目は俺の表情を窺っているようで、口元だけは暗い笑みに歪んでいる。
緊張に自然と背筋が伸び、冷たい汗が浮いた。
「…おれのこの半年が気になるか、ケビン」
重く感じる空気を振り切るように頷いた。
龍之介は「ふん」と息を吐いた。
「――オーケイ、正直に語ろう。貿易の話ももちろん入るが、主にこの屋敷に関することだ。お前もこの屋敷の噂くらいは聞いたことあるんだろう?」
「ああ」
――数年前に大量殺人事件が起きて以来、亡霊がうろつくようになったとか。俺たちが今いるこの屋敷は、まさに殺人の血が流された現場なのだ。
ここら一帯じゃあまりに有名なその噂。それを聞いていたもんだから、正直屋敷に入ったときは恐ろしかった。勝手なイメージとして、そこらに血の跡がこびり付いていたりするんじゃないかとも。
――正直今だって恐ろしい。この屋敷だけ空気が重く冷たいような、胸への圧迫感が否めない。
「おれも不動産屋からその話は聞いていた。だが信じていなかった。あいつを見るまではな」
――錯覚か?
風が俺の首筋をからかうように撫ぜる感覚に、背筋が逆立った。
俺がびくりとあたりを見回したのを合図として、龍之介は己の半年を饒舌に語りだした。
この屋敷の秘密と、商売が軌道に乗った訳。この男がこの半年で出会った人々。
語り始めは、奇妙な日本語だった。
「ねがいましては、始めよう」